泡沫の龍騎士 プロローグ
どこまでも広がる草々を踏みしめながら、二人の少年はなだらかな丘を駆け上っていく。
空は果てがないくらいに青く広がり、所々に雲が浮いていた。
二人の少年は、丘の頂上に着いたところで足を止め、そんな空を見上げる。
坂道を走ってきたため、二人とも少し呼吸が荒い。しかし彼らの顔は、目に映る光景によって光り輝いていた。
「間に合った! すげえ、一、二......九騎も飛んでるぜ!」
まるで夜空のように黒い髪を持った少年は、隣に居るもう一人の少年に言う。
彼らの目に映るのは、高空を悠然と飛び行く九つの影。その一つ一つが、蝙蝠のような薄い翼と長い尾を持っていた。人々が龍 と呼ぶ生き物だ。編隊を組み、悠然と空を飛んでいく。
彼とは対極的な、月光のように白い髪を持った少年は、彼の言葉に頷いた。
「本当にすっごいね! あんなに高いところを自由に飛べるなんて......! ノルヴも、いつかあれに乗るの?」
ノルヴ、というのは黒い髪の少年の名だ。
彼は、得意げに胸を張る。
「もちろんだ。そんときゃ、レアも一緒にやろうぜ、龍騎士」
白髪の少年、レアはノルヴの言葉に顔を少し曇らせた。
「僕は、ノルヴみたいに強くないからさ......」
するとノルヴが、レアの肩をガシリと掴む。
その顔は、やはり微塵の不安も感じさせない、明るいものだ。
「心配すんなって。俺と一緒なら怖いものなしだろ? 行こうぜ、帝国軍」
ノルヴの言葉に、レアは少し呆れたような表情になった。彼がノルヴの前で気弱な態度を見せたとき、ノルヴはいつもこう言っているのだ。
他愛ない、しかし未来は潤沢にある、まだまだ幼い少年達の会話だ。
温暖な、それでいて爽やかな風が丘を駆けていく。
龍達は、彼らの遥か上空を、悠然と飛んで行った。
――
葉擦れの音が、ノルヴの意識を過去から現実に引き戻した。
彼が今居るのは、山中の木を切り開いて作られた施設。
そこは、所謂(いわゆる)駐屯地や基地と呼ばれるところで、軍の騎士達が自分の操る龍と共に駐留している。ノルヴも、そんな騎士の内の一人だ。
彼は閉じていた目を開き、空を仰ぐ。龍が飛びたてるように基地の前は開けていて、その端に置かれた木箱の上に、ノルヴは座っていた。少し冷たい夜風が、彼の肌を撫でる。
目を閉じる前は、まだ空に夕日の色が残っていた。しかし既にその色は消え、辺りは真っ暗になっている。生憎新月のようで、月明りもない。
「隊長! こんなところにいたんですか」
不意にランプで照らされ、ノルヴは顔を上げた。そしてその明かりの主が自分の部下である事を確認する。
「どうした」
彼は部下に短く問う。その声は低く、あまり感情が感じられない。
思わず辟易した表情になる部下。
「どうしたも何も、作戦開始まであと何分もありません。準備を――」
「俺がそこまで言われなければいけない理由がわからないな」
部下の声を遮るようにして言い、ノルヴは指笛を吹いた。
高く、まるで鳥の鳴き声のような音が、基地を囲む森に響き渡る。
そして数秒の静寂。
次に聞こえたのは、葉が擦れる音と、龍特有の、重々しい羽ばたきの音。
森の中に居た龍が、ノルヴの指笛に反応して飛び、彼らの傍に降り立った。
その龍は、ノルヴの髪や瞳と同じく、まるで夜空のような黒色をしている。
「お前らの準備が終わるのを待っていた。早くしろ。この作戦はどう転ぼうと今後の戦況に多大な影響を与えるものだ」
独特な威圧感のあるノルヴの声に、部下の男は圧倒されたようだった。慌てて返事をすると、基地のほうへと戻っていく。
そして、またも一人になったノルヴ。
彼が呼んだ龍は、短く唸るような声を上げると、彼へと顔を寄せた。
ノルヴは、足元に置いてあった小さな木製の樽から、黒く光沢のある鉱石を取り出すと、龍の口に向かって放る。
それを受け取り、龍は咀嚼した。グルグルと喉が鳴っている。鉱石を飲み込むと、大人しく地面に座り込んだ。
ノルヴの操る黒龍は、いくつかある龍種の中で唯一夜目が効く種だ。
その爬虫類然とした目には、ノルヴの顔の右側にある大きな火傷跡が、はっきりと映っていた。
数秒の沈黙の後、基地前は俄かに騒がしくなる。
ノルヴの部下達が、各々の龍を連れて外に出てきたのだ。数にして九。連れている龍の色は全て黒だ。
「来たか」
ノルヴは、やはり無感情に言うと立ち上がり、額に上げていたゴーグルを下げる。
彼の隣に居る龍は、首の付け根、ちょうど人が跨れる太さのところに、鞍や鐙(あぶみ)のような器具がついている。ノルヴはそれを足掛かりにして龍に跨った。
「これより、アレニエ国軍港、マルガリトム港への奇襲作戦を開始する! この作戦は、我がシュピネー帝国からアレニエ国への宣戦布告、及び敵主力艦を殲滅(せんめつ)する事が目的だ。微塵の失敗も許されない! 全騎、覚悟してかかれ!」
九騎の龍と龍騎士が飛び立てる体勢になったところで、ノルヴはそう叫ぶ。彼もまた、九騎を先導する位置に移動していた。
そしてノルヴの声に、騎士達は大声で返答する。
その声を合図にして、龍達は一斉に離陸した。
基地は山の斜面にあるので、飛び立つとすぐに地面が離れていく。一瞬で辺りが闇に包まれた。月明りもない為、地面は全く見えない。
空は快晴、所々に星が瞬いている。
ノルヴの顔に吹き付ける風は、まるで氷水のように冷たい。その風の勢いだけが、彼らの飛行速度を物語っていた。
轟々と唸る風の音を、ひたすらに聞き続ける時間が、しばらく続く。
隊の先頭を行くノルヴは、恐らく地平線のある辺りの闇に、じっと目を凝らしていた。
少しすると、視線の先に明かりが見えてきた。民家などの放つ弱々しい光ではない。大きな施設特有の、煌々とした明かりだ。
彼らの目的地、マルガリトム港だ。
港の明かりは、どんどんと大きくなっていく。そして少しずつ、港付近の海岸線と、そこに停泊している巨大な帆船の影がはっきりしてきた。
ノルヴは、自分の左耳に付けられた装置に指を当てる。その装置は、一見石を磨いただけの装飾品に見える。
「異常なし。事前に伝えた作戦に変更はしない。行くぞ」
彼の一言は、装置を通して隊の全員に伝えられた。
そして、十騎が一斉に、港へと向かう。
港に浮かぶ帆船は、硬質な鉱石と木を組み合わせてできた軍艦だ。側面には大砲の為の穴が開いている。
彼らは港上空に到達すると、地上から見つからない程度の高度を保ちつつ散開した。
その数秒後、港の至る所で大きな爆発が起こる。
大きく炎を立ち昇らせる爆炎は、港を一層明るくした。
ノルヴらが、予め積んでいた爆弾を軍艦の上に投下したのだ。
そして炎上する船の中の一つが、しばらくして大爆発を起こした。積まれていた火薬に引火したようだ。
人々が慌てて外に出てくる頃、ノルヴ達は既に出発した基地へ向けて方向転換している。
港内の海は燃え盛る炎で赤く照らされていた。
この惨状は、ノルヴらの奇襲作戦が、完璧に成功している事を物語っていた。
彼らの住む大陸の名は、レスぺ。何十年もの間、国々が争いをしている。
そして今、新たな戦争の火蓋が切って落とされた。
泡沫の龍騎士 1話
「二人とも、我が国の勝利の立役者として、後世に名を遺すことでしょう。ご苦労でした」
マルガトリム港襲撃より数日、ノルヴはもう一人の男と共に、目の前の女性にそんな言葉をかけられていた。
場所は、ノルヴらの上官らしい女の部屋。あまり広くなく、ある家具といえば、木製のデスクと、彼女が座っている椅子くらいだ。
「まだ気が早いですよ、レリス騎士長。まだ戦争は始まっただけ、後世では我々は重大な戦犯と言われているかもしれません」
ノルヴの横に並ぶ男が、そう返す。レリス、というのは目の前の女のことのようだ。
「確かにそうですね......兎に角、二人とも期待していますよ」
レリスはそういって微笑みかける。その顔は、軍人とは到底思えないほどに綺麗だ。肌も身に纏っている服も白く、髪はそれに対抗するかのように黒くて艶やか。歳はまだ二十代半ばで、体つきも文句なし。
並みの男ならば、頬を緩めたり、鼻の下を伸ばしてしまうのも致し方ないといった容貌である。しかしノルヴやもう一人の男は、全く動じていない。
二人は敬礼すると、部屋を後にする。
騎士長が彼らに述べた感謝は、先日彼らが重要な作戦を完遂したことに対してだった。
ノルヴは、言うまでもなくマルガリトム港奇襲について。そして彼を共に居た男は、マルガリトム港襲撃と同時刻に行われた、別の作戦について、だ。
「何故お前なんぞに......」
部屋を出た後、扉の前で男はぼそりと言った。明らかにノルヴに向けられた言葉で、しかも声色には怒りや妬みといった、良くないものが混ざっている。
当のノルヴだが、扉の前に立ち、足早に廊下を去っていく男の背を無表情に見ていた。
突然ノルヴの背後で物音がする。
振り返ると、先ほどノルヴが出てきた木製の扉が開いており、そこからレリスが顔を覗かせていた。
「すみません......一つ伝え忘れていたことが」
「まだ何か? アドウェルならもう行ってしまいましたが」
ノルヴはレリスに聞く。アドウェルというのは先ほどノルヴに毒づいていた男の名だ。
しかし用事があったのはノルヴだけらしく、彼女は気にしていない様子だった。
「大丈夫です。一つ任務......というよりお願いがあるのですが......」
――
「俺と騎士長の二人で、ですか?」
再び部屋の中に入ったノルヴは、レリスの言葉を聞いて言った。
「はい。南鉱山に錬金術師の一派が居るのですが、武器生産に関しての協力を仰ぎたいのです。彼らは高いアルム加工技術を持っているので、対龍弾の効力を上げられる筈です。そのための交渉につきあってもらおうと」
彼女の言う錬金術師とは、大陸中に存在する研究者の事だ。主に特殊な効力を持つ鉱物、鉱石の研究をしている。
そしアルムは、人にとってはただの石だが、龍に対しては猛毒になるという性質を持った鉱石だ。龍騎士同士の戦闘は、如何に敵の龍を堕とすかが重要となり、たった数発で龍を衰弱させるアルム製の弾丸は戦闘の要となる。
レリスの説明に、ノルヴは少々疑問を浮かべた。
「分かりました......が、何故今更? 開戦直後で緊迫した状況の今よりも、もっと前に交渉できたと思うのですが」
「実は、以前から交渉を進めていたのですが、断られていたんです」
「断られた?」
頷くレリス。曰く、拒否する理由はまるで不明だということだ。
暫く考え込むノルヴ。
「理解に苦しみます。彼らにとっても、費用やら材料やらが楽に手に入るので、かなり大きい利がある筈ですよね?」
彼の言葉に、レリスは唸った。ノルヴに同感らしい。
「そうなんですよね。恐らく何か裏が......それを聞きだす為にも、貴方の交渉力を借りたいのですよ」
なるほど、と言いながらノルヴは顎を摘まむ。
「兎に角行ってみましょう。直接聞いてみないことには、何も言えませんので」
――
シュピネー帝国は、海に面した北方を除いた三方を山に囲まれた国だ。王宮及び城下町があるのは最も内陸、つまり国の南側で、帝国軍本部があるのもそこだ。よって本部を出るとすぐに、城下町の喧騒に包まれることになる。
雑踏の中を、ノルヴとレリスは歩いていた。
「いつ見ても活気があっていいですよねえ、この街は。売られてるものも素敵なものばかりです」
「それはいいですが、俺は騎士長様のウィンドウショッピングに駆り出されたわけじゃないんですよ」
宝石をあしらった装飾品が並ぶ店を覗くレリスに、ノルヴは冷ややかに言う。
彼の言う通りになりかけている事に気づいたレリスは、店の前から離れた。
「わ、わかっていますよ。ただ素敵だと思ったから......」
「女性が目的を忘れて買い物を始める原因は大方それじゃないですか」
ノルヴの口撃に、レリスはぐうの音も出なくなってしまう。
二人は、徒歩で南鉱山中腹まで向かう段取りを組んでいた。
「あ、今思ったんですが、これ貴方だけで行ったほうが、龍に乗れるので早く済むのでは?」
ふと、レリスがそんなことを言う。
龍に乗ることができるのは、男性のみだ。古来より女性が龍に乗る研究は続けられているのだが、乗龍による戦闘が主流となった現在でも、実現していなかった。
一見ごもっともなレリスの意見に、ノルヴは溜息をつく。
「そこまで高位でもない一介の騎士一人が出向いて、連中が納得するわけないでしょう」
「ですよねえ......」
またしてもノルヴに言い負かされる形になったレリス。
彼女を呆れた目で一瞥すると、ノルヴは周囲を見渡した。何かに気づいた様子だ。
「どうしました?」
レリスが声をかける。
「いや、我々妙に視線を向けられている気が」
そう言われて、レリスも周囲に目を向けた。
ノルヴの言う通り、彼らの周りにいる通行人の幾人かが、ちらちらと彼らに目を向けているようだ。
「やはり、バレましたかね?」
小声になり、レリスはノルヴに耳打ちした。
バレるばれないというのは、彼らが帝国軍のトップと、マルガリトム港襲撃の立役者である、ということについてだ。騎士長であるレリスは言うまでもなく、ノルヴもマルガリトム港襲撃以前からその実力により顔が知られている。そんな二人が普通に街中にいたら、驚かない人はいないだろう。
そんな言は二人も理解していて、眼鏡をかけたり、目立たない服を着たりと、色々工夫をしてきているのだ。
にも関わらず、二人には通行人の視線が集まっている。
「どうしても大通りは目立つようです。大人しく路地裏を行きませんか?」
ノルヴの提案に、レリスは同感のようだった。
因みにその提案をした時、ノルヴは、まるで有名人のようだなどと思って内心苦笑いを浮かべていた。帝国軍の実力者も、ある意味では有名人なのだが、それに突っ込む者は誰もいない。
更に言うと、二人に向けられていた目線は『こんなところに軍のトップがいるぞ』という畏怖孕みのものではなく『抜群のルックスをもつカップルがいるぞ』というものだった。二人がそれを知ることは永遠にないだろうが。
路地裏は、人がいないというわけではないものの、やはり大通りと比べると閑散としていた。
「始めからこっちを通っていれば、こそこそ隠れるような思いもせずに済んだだろうに......」
溜息交じりに言うノルヴ。
大通りを行こうと提案した張本人は、苦笑いを浮かべた。
「確かに、こっちのほうが話もしやすかったですね」
レリスの言葉に引っ掛かりを覚えたノルヴは、思わず立ち止まる。丁度右側に分かれ道が伸びている、丁字路だ。
数歩先行してから、彼が立ち止まったことに気づくレリス。
「話?」
彼女の背中に投げかける形で、ノルヴは尋ねた。
立ち止まり、ノルヴのほうを振り返るレリス。
「貴方の生い立ちについて、です。勿論無理強いはしません。貴方は私が最も信頼している人の一人です。なので、どうしても気になってしまって」
その声は、先ほどまでの少々緩んだものとは違う、シュピネー帝国騎士長のものだった。
そして彼女の質問は、ノルヴの中ではかなり重い意味を持っている。彼は今までに、軍に入る前の事を誰にも明かしたことがなかった。
次にノルヴが口を開くまで、数秒の時間がかかった。
「別に教えるのは構いませんが、一つ条件を提示してもいいですか? 命令ではなく、興味なんですよね?」
「ええ、内容にもよりますけ――」
何かが飛来してくる音が、レリスの言葉を遮る。
それは、二人の間、ノルヴの右側から伸びる道から飛んできた。
鋭敏に音を聞きつけ、頭を引くノルヴ。
彼の前髪を数本切ったそれは、道の反対側の壁に突き刺さった。見ると、小型のナイフのようだ。
「んなとこで何やってんだ?」
ナイフが飛んできた方向から、低い男の声と共に数名の足音が聞こえてくる。
現れたのは、三人にガラの悪い男たち。各々手にこん棒やナイフなど、物騒な物を持っていた。
「なんだ、お前ら」
咄嗟にレリスを自分の背後へ庇い、ノルヴは男らに聞く。咄嗟の判断、といっても、彼がしたのは『レリスを守らねば』ではなく、『とりあえず町民らしく振舞おう』というものだ。筋骨隆々の男衆をものともしない強さの女などそうそういない。ここは目立たないようにと考えたのだ。
「生意気に強がってんなあ。そんな金持ちそうな恰好でこんなとこふらついてたら、ちょっとばかし稼がせてもらえるんじゃねえかと思うのは当然だろ?」
先ほどのナイフを投げたらしい、他の二人の前にいる男が言った。他の二人は、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
「だから、金目のもの寄越してくれりゃ、あとは何もしねえ。だからよぉ」
男は、数歩ずつノルヴらと距離を詰め、手のナイフを彼らに向けていた。
完璧なカツアゲの形だが、ノルヴは全く動じず、軽く溜息をつく。
「断る」
泡沫の龍騎士 2話
ノルヴと騎士長レリスが、一見デートに間違われそうな行動をしている頃、アドウェルは、帝国軍本部の廊下を一人歩いていた。
彼の顔は不機嫌そのものだ。その理由は、騎士長の部屋の前で彼がノルヴに放った言葉が如実に物語っている。
何故自分が、何歳も年下で、兵役経験も浅いあの男と同格に扱われなければならないのか。
そんな事を、廊下のタイルと靴が奏でるコツコツという音をバックに、延々と考えていた。
今アドウェルが向かっているのは、訓練場だ。そこには彼より少し階級が低い者たちがいる。気を紛らわす為に部下を扱こうなどと考えているわけではないのだが、彼が何か考え事をしている時は、自然とそこへ足が向いてしまうのだった。
廊下の突き当りに差し掛かった。アドウェルの考え事は未だに続く。
そして廊下の角からそっと頭部に突き付けられた銃口にも、彼は気が付かなかった。
「タァーン」
そんな声と共に、銃が発砲時の反動を模して跳ね上げられる。
アドウェルは軽く肩を震わせた後、自分に向けられている銃の持ち主をジト目で睨みつけた。声がして、やっと物思いから戻ってきたらしい。
「なんですか、副騎士長」
彼の視線の先には、大柄な男がいた。
「ボケっとしてる騎士様を、起こしてやっただけだ」
つまり、ふざけていた、という事らしい。
アドウェルは、一層視線の湿度をあげる。
彼の様子を見た男は、豪快に笑った。
「おいおい、戦場じゃねえんだから、こんぐらいのユーモアがあってもいいじゃねえか」
「ここが帝国軍本拠地の中枢付近で、あなたが副騎士長ガルド様じゃなければ存分に笑ってやりましたよ。今虫の居所が悪いんです。もういいですか」
言葉を裏付けるように、彼の声色には苛つきが混じっている。
それを見て、ガルドと呼ばれた男は溜息をついた。
「またか......お前の機嫌が悪いときゃ、大体あいつ絡みだと相場が決まってるが、図星か?」
肩を竦める事で、返答の代わりにするアドウェル。
彼の行動をみるに、ガルドの言うあの男、というのはノルヴの事らしい。
「才能だけの若造が、調子に乗らないわけがないでしょう。調子に乗るのも、調子に乗らせるのも見ていて反吐が出る」
その物言いに、ガルドは再び大声で笑った。
「俺からみりゃ、おめえも十分若けぇんだよなあ。ま、口出しはしねえでおくよ。それより、一つ旨い話があるんだが、どうだ?」
ガルドの言葉に、アドウェルは眉を顰める。
――
アドウェルらは、話題の中心人物が悪漢に取り囲まれているとは思ってもいなかった。
そしてその数分後。
「おお、おい、おま、お前! 一体何者なんだよ!」
ナイフを持ち、三人の中でもリーダー風を吹かせていた男が、思わず後ずさった。その顔には、明らかな狼狽が浮かんでいる。
彼の目には、一瞬で気絶させられた彼の仲間二人が映っていた。
「何者も何も、ちょっと腕に覚えのある一般人ですが」
飄々と男の問いに答えつつ、ノルヴは男の持つナイフを裏拳で弾き飛ばした。
一瞬で空になった右手を見て、男は小さく悲鳴を上げる。
そしてノルヴは、両手を構え上がら言った。
「まだ続けます?」
声色に混ぜられた威圧を感じ、男は考えるまでもなく逃げだす。その背は、頼りないこの上なかった。
「お疲れ様です。流石、師譲りの格闘術ですね」
ふうと一息つき、レリスはノルヴを労う。彼女はただ傍観していただけなのだが、それでも神経を緊張させていた。まずないであろう万一に備えていたのだ。
「ありがとうございます。まだまだ師匠には敵いませんがね......というか、結局こうなるんだったら、大通りだろうがどこだろうが、面倒なのには変わりないみたいですね」
さして疲れた様子のないノルヴ。軽く手を振ると、何もなかったかのように歩き出した。
「それで、先ほどの話の続きですが」
レリスが切り出した。彼女はまだ、ノルヴが提示する条件を聞いていない。
それを聞いて、ノルヴは何のことかを察した。
「はい。俺の過去を教える代わりに、資料庫にある機密資料を見せてください。十年前のある事件に関するものです」
彼の提示した条件は、かなり奇妙なものだった。思わず眉を顰める。
「あなたになら、ある程度の機密は明かしてもよいですが、一体なぜ?」
彼女の問いに、ノルヴは一瞬の間をおいて答えた。
「道中、俺の生い立ちと一緒にお話しします」
そしてそのまま、ノルヴは少し速足になる。
レリスはそれについていった。
――
「到着しましたね」
レリスは、目の前に広がる光景を見ていった。
木々が乱立する森の中、滑らかな煉瓦作りの建物が幾つか立っている。ここは帝国南の鉱山の中腹、通称術師の村と呼ばれるところだ。
彼らが今居るのは、建物の中でも一際大きいものの前。そこに村を取りまとめる者がいるようだ。
扉の前に立つノルヴ。
「とりあえず、とっとと用事を済ませてしまいましょう。恐らく訳ありなので、時間がかかるかもですが」
そういって、扉をノックした。
すぐに中から鍵が開けられ、扉が開かれる。
中に居たのは、やや痩せ気味の、中年の男。目には眼鏡をかけていて、いかにも研究者といった風体だ。
彼はノルヴと、その後ろに居るレリスの顔を見た瞬間、顔を青ざめさせ、扉を閉じようとした。
そうはさせまいと、ノブを掴んで引っ張るノルヴ。
扉は、閉まる直前で止まった。
「わ、悪い、帰ってくれ。あんたらにはどうしても協力できない」
男は慌てたように言う。ボソボソとした、根暗そうな話し方だ。
「だったら、何故協力できないのか言ってください。そうしたら、我々も納得して帰るかもしれないじゃないですか」
ノルヴが言い返す。
その言葉に、男が小さく唸るのが聞こえた。
暫く扉の引っ張り合いが続いた。少しすると、痺れを切らしたノルヴが一気に扉を引っ張る。
開かれた扉に引っ張られ、男が外に出てきた。
「さあ、理由を言ってくださいよ」
更にノルヴが問う。
男は、少々怯えているようだった。
ノルヴの後ろに居たレリスが、一歩前に出る。
「我々も、何もなしにこう何度も尋ねたりしません。状況が状況です。協力できない理由を話す協力を、してくれませんか?」
数秒の間、何か葛藤していた男だが、諦め、もしくは決心がついたらしく、一つ大きな溜息をついた。
「分かりました、お話しします......ただし、我々には何もしないでくださいよ?」
そういって、男は二人を家へと招き入れる。
二人は、男の最後の言葉に眉を顰めながら、部屋に上がり込んだ。
室内は、壁や床が外装と同じ灰色の煉瓦で作られており、暗い印象を与える。丁度帝国軍本部と同じような感じだ。
客室のようなところに案内され、椅子を差し出される。二人は大人しくそれに従った。
「あ、ああ、ご挨拶が遅れました。私、ここら一体の研究者を纏めているノーブルと言います。早速本題なのですが......」
ノーブルは、戦々恐々とした様子で声を潜め、テーブルから身を乗り出す。
「話すからは、私たちを守って貰えるんでしょうね?」
その様子に、二人は顔を見合わせた。
「それは、事情を話してもらわないと」
少し困った顔で、レリスが言う。
彼女の言葉に、ノーブルは納得した様子で体を戻した。
「実は......もう十年も前の事になるのですが、この村で一人の遭難者を助けた事があったのです。記憶喪失だとか、そういう事を言っていたので、山を下りられるようになるまで、ここで面倒を見たんですね。大体五日とか、そのぐらいで彼は全快したのですが、その後事件が......」
一旦言葉を切るノーブル。その後の事が一番言い辛いらしく、その先を言おうとせずに、口を噤んでしまった。
「事件?」
先を話せと促すように、ノルヴが彼に聞く。
「その男が、元々村にあった武器を持って、本の家に立てこもったのです。ああ、本の家というのは、そこの窓から見える建物の事で、研究資料の殆どを保管しているところですね。つまり我々にとって命以上に大事なものなので、彼の要求に答えるしかなかったのです。そしてその要求というのが......」
ノーブルは、そこで少し間をおいた。
「その要求が、『俺をこの国の王都、及び軍に侵入させろ』と......」
それを聞いた瞬間、ノルヴとレリスの表情が凍り付く。男の一言が内包する意味を悟ったのだ。
この国、というのは言うまでもなくシュピネー国の事。そしてそんな事件を起こさなければ王都に入れない理由はただ一つだった。
「つまり、密偵、ということですね?」
強張った声で、ノーブルに聞くレリス。
核心を言われた事で、彼はより一層顔を青ざめさせる。
それを見て、ノルヴの目に一瞬光が走った。
「その時、これを言えばこの村を襲撃するとでも言われたんだろ?」
驚いたように目を見開くノーブル。
「よ、よくそれがわかりましたね」
おどおどとした声に、驚きが混じっている。
ノルヴは、軽く肩を竦めた。
「お前の態度を見てりゃ大体察せるぞ」
そして、レリスが慌てて立ち上がる。
「兎に角、この情報は急いで国に上げなければなりません。それとノルヴ、私が軍に戻っている間、この村で待機してください。密偵の言葉は、一旦信用するしかありません」
そう言って、懐から石を取り出した。紫色をした鉱石で、港襲撃時にノルヴが耳につけていた装置にも使用されているものだ。
石にレリスが衝撃を加えると、石は淡く光を放つ。
「どうしました、騎士長」
野太い男の声が、石から聞こえてきた。それは、副騎士長ガルドのものだ。
「今南鉱山の錬金村に居ます。少々不味い事になったので――」
「それは奇遇ですね、こっちもかなり厄介な事になってますよ」
レリスの言葉を遮るように、ガルドが言う。
とりあえず、先にガルドに話をさせるレリス。
「今沿岸基地から応援要請がありました。どうやら海上での戦闘に少々手こずってるらしく......」
それを聞いて、レリスは歯噛みした。戦況が読めない以上、騎士長であるレリスが軍の本部にいつまでもいないわけにはいかない。そしてそれは、軍内でもトップクラスの実力を誇るノルヴも同じだった。
逡巡してから、彼女は石に向かって口を開く。
「わかりました。時間をかけたくないので、ノルヴの龍と、数名の兵をこちらに寄越してください。事情は、戻ってから伝えます」
「了解」
ガルドの短い返事が聞こえた直後、通信は切れて鉱石の光が消える。
そしてレリスは、ノーブルの方を向いた。
「今、ここを守る兵を数名要請しました。安心してください。情報提供、感謝いたします。それからノルヴ」
彼女はノルヴに、それ以上の事は言わなかった。
だがノルヴは、レリスの言わんとするところを察して目で頷く。
それから数分して、ノルヴの黒龍が村に飛来した。
泡沫の龍騎士 3話
「本部出発しました」
高空を飛ぶノルヴが、通信装置に向けて言う。彼は一旦村から本部に戻り、そこから国の北、戦闘が行われている場所に向けて飛んでいた。
通信の相手は、龍に乗れない関係で村に残してきたレリス。返答はすぐに戻ってくる。
「わかりました。こちらも援軍が到着したのでこれから本部に戻ります。くれぐれも、よろしく頼みます」
重みのある彼女の声に、ノルヴは力強い返事をした。
そして彼は逡巡する。
「どうしました?」
中々通信を切らないノルヴを不審に思い、レリスが声をかけた。
「もう少し落ち着いたところで話したかったのですが、私の生い立ちについて、今話してもいいですか?」
突然のことに、レリスが訝しむような声を漏らすのが聞こえる。
「どうしてですか?」
「......聞けばわかります」
――
数分後、ノルヴは戦地に到着した。
彼の視界内には、乱戦の様子が見え始めている。
今居るのは、シュピネー国北の海上だ。
乱戦の様子を見て、ノルヴは歯噛みした。
海上には、五隻の巨大な軍艦が五隻並んでいるのが見える。それは、アドリア国が保有する巨大龍送艦隊の内の五つだった。その名の通り、中に大量の龍と龍騎士を載せて運ぶことができる船で、アドリア国は、それを何隻も保有している。内数隻は、先日のマルガリトム港奇襲により撃沈されたのだが、それでもなお、この戦争における目の上の瘤になっているらしかった。ノルヴの目の前でも、数の上で劣るシュピネー国軍が劣勢となっている。
「だから湾岸駐留の騎士をもっと増やせと......」
不満を漏らしつつ、ノルヴは腰のホルスターに収められた二丁の小銃を取り出した。
乱戦となっている場所まで、あと数百メートル。ノルヴに気づいたらしい敵機が、こちらに向かってくる。敵機の色は、暗い赤。
敵機の上から、微かな発砲音が聞こえた。
発砲を確認すると同時に黒龍の翼を上に上げさせ、一瞬落下状態になるノルヴ。彼の頭上を、弾丸が通り抜けていく。
前方斜め上にいる敵機は、そのままいくと、ノルヴと上下方向ですれ違う形だ。
瞬間、ノルヴは敵機に向けて両手の銃の引き金を引いた。
破裂音と共に放たれた弾丸は、敵機の、血を思わせる色をした腹部に命中する。
敵機は、急激に動きを鈍らせ高度を下げていった。
それを見届けるまでもなく、ノルヴは近くの敵機へと向かっていく。
途中、付近を味方の龍が通り過ぎた。
色は、先ほどノルヴが撃墜した敵機と同じ、暗い赤。
乗っている騎士の姿が、ノルヴの視界の隅に映る。
その姿を、ノルヴは思わず目で追った。彼の表情には、不審や驚愕が見て取れる。
ノルヴが見たのは、まるで月光のように――
次の瞬間、彼の頬を敵の放った弾丸が掠めた。
一気に正気を取り戻したノルヴは、右後方から迫る新手を確認する。
そして、少々左へ旋回すると同時に、一気に高度を上げた。巧みに翼を操らせ、黒龍は、地面と垂直になる。
更にそこから落下。縦に旋回する途中だったので、丁度ループを中断し、背を地面に向けて落下する形だ。
ノルヴは逆さまになった状態のまま、下を見上げ、その視線の先に居る龍に、弾を打ち下ろした。
今度も命中する。
「援軍きました!」
ほぼ同時に、そう通信が入った。
チラリと陸側を見ると、十体近くの龍が飛んできているのが見える。
その後、戦闘はシュピネー国の優勢に形勢が変わり、アドリア国は撤退していった。
――
「......わかりました」
アドリア国の攻撃を凌いだ報告を、レリスは本部にて聞いた。彼女は、援軍部隊の編成と状況の確認をしていたのだ。
今彼女がいるのは、本部中枢にある騎士長室。副騎士長ガルドも、同室にて報告を聞いていた。
「まあ、とりあえずの勝利って感じだなあ」
報告を聞き終えると、ガルドは呟く。
レリスも異論はないようで、瞑目し、椅子にもたれかかった。
数秒間そうしていると、彼女は目を開き、今度は両手を組み、机の上に乗せる。
「あの件のことですが」
一言だけで、ガルドは何の事かを悟ったようだ。更に目つきが険しくなる。
「密偵......ねえ。十年前つったら、丁度山裏の村の事件の頃だよなあ。あれも何か関係があるのか? それに、その密偵は何の情報を......いや」
言葉を途中で切り、ガルドは少し顔を伏せた。あまり良くない事を考えているようだ。
ガルドの考えている事が分かったレリスは、肘を立て、組んだ両手に額を乗せる。
「最悪なのは、国、あるいは軍の中枢への侵入を許してしまっている場合ですね。ある程度腕の立つ者ならば、十年あればこの座に座る事も可能でしょうから......何ですかその目は」
レリスの言うこの座、というのは言うまでもなく騎士長の座のことだ。そしてそれを言った瞬間、ガルドがレリスを見つめた。彼女の最後の言葉は、その目が言っていた、「まさか」というガルドの内心に向けられている。
「まあ、騎士長様には悪いが、龍を手名付けられねえ女を、スパイとして送り込むわけがねえよな。それにあんたの外見を真に受けるなら、十年前は少女だろう?」
苦笑交じりにガルドは言った。女性に対する物言いとしてはとんでもなく失礼だ。だがレリスはガルドを一睨みするだけに留める。
「兎に角、国にも上げておきますし、我々も軍内を調査する必要がありますね。こんな時に、といった感じですが、兵一人一人の身元を洗い出して――」
「そうだ、身元と言えば、お前、本人の口から聞いたのか?」
言葉を遮り、唐突に話題を変えたガルド。
するとレリスは、少々不機嫌そうな表情になった。
「ええ。彼を十年前から育てている師が中々口を割ってくれないから、本人に聞く羽目になりましたよ」
そして、湿度の高い視線を、ガルドに突き刺す。
ガルドは、豪快な笑い声を漏らした。
「中々皮肉をかましてくれるなあ。多少は俺の心情も汲んでくれよ。こういう事は、本人、ノルヴの口から伝えたほうがいいだろう?」
ノルヴの持つ、銃や格闘含めた戦闘の技術は、全てこの副騎士長が伝授したものだ。十年前にある出来事が起こって以降、彼の親代わりをガルドが勤めている。
師、そして親代わりをする者としての言い分に、レリスは納得せざるを得なかった。
そしてレリスは、机の端に積んであった、分厚い資料を手にとる。それは何枚にも渡って帝国軍兵士一人一人の名と情報が記されているものだ。
「彼の身の上は良くわかりましたが――」
資料を数枚捲り、あるページに辿り着いたところで、その手を止める。
「全く、奇跡というべきか、難儀というべきか......何よりも私は、彼にとって重大な分岐点を作ってしまったようです」
彼女が何を思って言っているのか、一瞬ガルドにはわからなかった。
丁度その時、部屋に置かれた通信用の鉱石が光り、北の沖合で行われていた戦闘の、続報が届く。
それを聞いて、ガルドは全てを理解し、大きく息を吐いた。
――
戦闘が終わってから数時間が経った。ノルヴは、シュピネー帝国軍沿岸基地の廊下を、一人歩いている。
彼の表情は、普段よくしている寡黙そうなものではなく、疑念が渦巻き、なんだかパッとしない、といったものだった。
そして、目的地の扉を開け、中に入る。
彼が入ったのは、寝泊りをするための個室だった。
ノルヴは、今後しばらく続くと予想される海上戦の為、沿岸基地にいるようにという命令を受けていた。そして個室が宛がわれたのだが、個室はそうそう数がなく、普段基地に居るもので埋まっているであろうものなのだ。しかし何故か開いていたその部屋を、ノルヴが使用してくれと頼まれたのだ。
その時の指揮官の顔を思い出し、ノルヴは思わず苦笑を浮かべる。その男がノルヴを前にしていた表情は、あこがれる上官と対面した時のそれであり、階級で言えば自分より下の者に向けられるようなものではなかった。
「......そういえば、わざと昇格をしないという通告もされたな」
一人きりで気が緩んだのか、思わず浮かんだ言葉を口に出すノルヴ。
彼の持つ階級は、決して高いものではない。本来であれば、騎士長と一対一で話す事など敵わぬくらいに。だが、その実力故に、人を動かす階級に上げない方が得策であるという判断が下されているのだ。
そんな他愛のない事を考えていると、不意に直前の戦闘で見た姿が思い出された。表情が一変し、何か重大な事を考えている風だ。
彼の脳内では、遥か十年前の出来事が蘇っていた。
泡沫の龍騎士 4話
南の鉱山にある錬金術師の村、その山頂を挟んだ反対側には、山の傾斜が極端になだらかになった山中の平原がある。
そこにある村はシュピネー国最南端の村で、上空を頻繁に龍騎士が往来していた。
この村で育ったノルヴが龍騎士にあこがれたのは、当然ともいえる事だった。
「ちょ、ちょっとノルヴ、それどっかにやってよ......」
村外れの森の中、ノルヴに声をかける少年が居た。
ノルヴは、近くに居た蜘蛛を捕まえて、手の上を這わせている。少年の言うそれとは、その蜘蛛の事だ。
「何でこんなの怖がるんだよ。そんなにでかくねえじゃん」
少年の声に顔を上げたノルヴ。
少年、レアは近くの木に隠れるようにして立っている。
「だって、蜘蛛は蜘蛛じゃん......」
頑ななレアに、ノルヴは肩を竦めた。そして手に居る蜘蛛を地面に逃がす。
「これでいいだろ?」
そういうと、レアは木の影から出てきた。
「ノルヴは、家で蜘蛛一杯飼ってるから平気だけど、僕みたいな人もいっぱいいるからね」
彼の話し方は、常に気弱そうだ。
腑に落ちないといった顔をするノルヴ。
「そんなもんなのか? ってか、あーもう。父さんからもっと練習を増やせって言われてるの、思い出しちゃったじゃん」
そして、自分の黒い髪をわしゃわしゃと掻いた。
ノルヴの様子を見て、レアは苦笑する。
「蜘蛛糸を紡ぐのって、めっちゃ難しいからね......でもほら、この村の服の大半は、ノルヴの家で作られた糸からできてるんだから、頑張らないとじゃない?」
正論を突かれ、ノルヴは嫌そうに唸り声をあげた。
彼の家は、代々紡糸を生業としている。素材は蜘蛛の糸で、蜘蛛糸製糸は大陸でもっとも盛んな工業の一つだ。
その時、ノルヴはレアの腕に痣が出来ているのを見つけた。
レアに近寄り、腕をとる。
「レア、これ、またあいつらにやられたのか?」
聞かれたくない事を聞かれた、といった感じに、レアは苦々しい表情になった。
「う、うん、まあね。いつもみたいに、戦犯の家の奴だって」
レアの家は、錬金術師の家系である。分家であり、彼の両親は既に研究の類をしていない。
彼の言葉を聞き、ノルヴは憤慨した。
「何が戦犯だよ。別に戦争が続きなのは錬金術師のせいじゃねえし、レアにはそんなの関係ないだろ?」
「そうだけどさ......」
多くの錬金術師が孤立して村を作る最大の理由が、大衆からの批判である。全ての戦力の根幹にある火薬は、元々錬金術師らによって生み出されたものなのだ。そしてレアは、錬金術師への偏見の火の粉を被っている形だった。
レアの表情からは、諦念が見て取れる。
思わず、ノルヴは彼の肩を揺さぶった。
「俺がいるから。俺はそんな偏見持たないし、あんな奴らとは絶対に違う。できることならなんだってするから」
ノルヴの勢いに、レアは軽く圧倒される。
「あ、ありがとう。でもなんで?」
彼の問いに、ノルヴは肩を竦ませながら答えた。
「他の誰も得しないのに、ずるいこととか、悪いこととか、そういうのをする奴が嫌いなんだよ」
するとその時、地面に映る木漏れ日が一瞬影に飲まれて消える。上空を何かが通りすぎたのだ。
二人が上を見上げると、木の葉の間から、空高く飛ぶ龍の姿が見えた。
「すげえ、編隊組んでる! 丘まで行こうぜ」
龍の姿に目を輝かせたノルヴは、レアの手を引いて駆けだす。
何か言おうとしたレアだが、手を引かれ、言葉を出せなかった。
――
「――心配すんなって。俺と一緒なら怖いものなしだろ? 行こうぜ、帝国軍」
丘から高空を見上げ、ノルヴはレアにそういった。
彼らの目線の先を、九機の龍は悠然と飛び去って行く。
どこまでも青い空と、大きく広がる雲とが合わさり、彼らが見ている景色は、彼らの心を代弁するかのように輝いていた。
「う......うん」
答えるのに少し間が開いたが、レアははっきりとした意志を持って頷く。
ノルヴはそれを聞いて、満面の笑みを浮かべた。
「おいノルヴ! こんなところにいたのか!」
不意に、背後から声が聞こえる。
声が耳に入ったノルヴは、表情をこわばらせた後、心底面倒臭そうな顔になった。
「父さん......」
ゆっくりと振り返ると、そこに居たのはノルヴの父親。
「全く、手伝いをさぼって抜け出すなと何度言ったら......」
「はぁい」
最早慣れたやり取りであるのが、存分に察せられた。
そしてノルヴは、父親に腕を引っ張られつつ、レアに小さく手を振って丘を降りて行く。
後に残されたのは、レアただ一人。
吹き抜ける風が、彼の白い髪を撫でていった。
――
轟々と燃え盛る家々をノルヴが眺めていたのは、それから半日も経たない頃だった。
深夜、普段ならば家の明かりも消えて村は闇に包まれている時間だ。だが今夜は、炎によって村の隅々までもが赤く照らされている。
それは空襲だった。
そんな事が起こるなどと微塵も思っていない皆が、完全に寝静まったタイミングで起こったのだ。つい先ほどまで聞えていた複数の悲鳴は、もうすでに聞こえなくなっていた。
ノルヴは、目の前に広がる惨状を、呆然と眺めている。
「......ノ、ノルヴ......」
背後から怯え切った声が聞こえて、ノルヴは振り返った。
木の影からこちらを覗いているのは、レア。
二人とも、顔が煙や煤で薄汚れている。
「何があったの......?」
レアは、不安そうに聞いた。
だがそれに対し、ノルヴは首をふる。
「俺だってわかんねえよ......一斉に村に爆弾落とされて、こんな風に......村の皆、何人生き残ってるんだよ......」
そういう彼の声も、震えていた。
どこかの家の大きな柱が、一際大きく爆ぜる音を立てる。
次の瞬間二人の目に飛び込んできたのは、夜闇のような体色の、巨大な龍だった。
燃え盛る村と、ノルヴらが居る森の間の草原に、それは音を立てて降り立ったのだ。
突然現れた龍に、二人の表情が固まる。
炎に煌々と照らされた二人を、逆光でシルエットだけになった騎手はすぐに発見した。
龍が咆哮を上げ、二人の方を向く。
騎手が、両手に持った小銃で、二人を狙った。
直後鳴り響いた銃声と共に、ノルヴはレアの手を取って森へと走りこむ。
弾丸は、彼らのすぐ傍の木に当たった。
「ヤバい、完全に俺たちを殺しに来てる!」
走りながら、ノルヴは言う。
言い終わらない内に、二度目の銃声が聞こえた。それと同時に、木をなぎ倒す音も聞える。龍が森の中まで追ってきているようだ。
「ど、どうするの?」
ノルヴと共に走りながら、レアは焦りの表情を見せた。
「どうもこうも、今は逃げるしかできねえだろ!」
三つ目の銃声。しかし木が邪魔になっている為、運よく二人には当たらない。
二人は、森の奥へと走っていく。
「ねえ」
少し進んだところで、レアがノルヴに話しかけた。息が上がってきている。
「銃声、聞こえなくなってる」
その言葉に、ノルヴは足を止めた。荒い息のまま、周囲に耳を澄ます。しかし、龍が追ってくる気配すら感じられない。
「......何があったんだ?」
表情を強張らせながら呟くノルヴ。頬を汗が伝っている。
すると頭の上から、バサリ、という音が聞こえた。
ノルヴは、はっとしながら上空を見上げる。
繁る葉と夜闇に紛れて姿は見えないが、複数の龍が飛ぶ音が聞えてきていた。
「まずい......」
目を見張りながら、ノルヴが呟く。
二人がその場から動く暇を与えずに爆音が響き、周囲の木々が炎上し始めた。上空に居た龍が、発火性の爆弾を投下したのだ。
あっという間に炎は燃え広がり、二人の逃げ道をふさぐ。
「逃げられない......!」
炎に囲まれた中心に身を寄せ合いながら、レアが言った。
ノルヴも、焦った表情でぐるぐると周囲を見回している。
その時、バキバキと木の倒れる派手な音がした。
現れたのは、先程ノルヴらを追っていたらしい、黒龍。位置関係により、騎手の顔はやはり見えない。
龍の出現に、二人は息を飲む。
地を這い体内に響くような、重々しい低温で龍は唸った。顔を近づけ、まじまじと二人を見る。
二人の眼前には、龍の巨大な口が迫った。
一瞬恐怖で固まる二人。
しかし、ノルヴは何かを見つけると、意を決した顔でレアの耳へと口を寄せた。
「レア、龍の入ってきたところ、火が薄くなってるから、逃げられる! 俺は右から回り込むから、お前、左から.....」
早口で言ったが、レアにはしっかりと聞き取る。
二人は、危惧すべき最大の難関である目の前の巨大な龍と、その先にある唯一の脱出路を見据え、ひと呼吸おいてから走り出した。
突然二手に分かれたノルヴらに、龍も騎手もすぐに反応できなかった。狙い通り二人は龍の左右を抜け、駆けていく。
もう少しだ。と、ノルヴが思った瞬間、低く風を切る音が、彼の耳に届いた。
音のする方をみて、ノルヴは目を見張る。
龍の尾が、眼前に迫っていた。避けることなど、ノルヴには到底かなわない。
レアがノルヴの名を叫んだ時、彼は腹部に強烈な衝撃を受け、吹き飛んでいた。
そこで、完全にノルヴの意識は途絶える。
――
「その後目覚めたのは、当時南鉱山基地にいた師匠のところでした。師匠曰く、焼けた残骸の下に埋もれていたそうです。この傷も、その時......」
村の惨劇から十年後、錬金術師の村からの帰路で、ノルヴはそう言い、話を締めくくった。
彼が師匠と呼ぶ男は、現在軍の副騎士長を務めているガルドだ。
少し口を噤んでから、ノルヴは再び口を開く。
「それから先は、多分ご存知だと思います。師匠から訓練を受け、軍に入りました」
ずっと黙って話を聞いていたレリスは、悲しげな表情で眉を伏せた。
「十年前は、私もまだ軍の下級騎士でした。しかし南鉱山裏の村が一晩にして全滅したその事件は、よく覚えています。原因もわからず、他国からの奇襲にしてはその後の動きが一切ない。あまりの謎の多さに、軍どころか、国全体が大騒ぎしていました」
「......その真相は、俺にも皆目見当がつきません。龍は見たものの、その上に乗っている者は全くでしたし」
そして、二人とも黙り込む。
眼下には、街と山の間にある、広い草原地帯の景色が流れていった。
「レアという少年は、その後どうなったのか、全くわからないんですね?」
ふと、レリスがノルヴに尋ねる。
ノルヴは黙って頷いた後、歯噛みした。
「親も、親しい人も、あの日一辺に俺は無くしたんです。だからといって、他の国との戦争を憎むわけではないですが、一刻も早く、この争いが終わって欲しい。そして俺は、人を守れる騎士になりたい。師匠に戦いを教わり始めてからずっと、俺はそう思っています。俺は運よく師匠に助けられましたが、師匠も他の誰も見つける事は出来なかったと言っていました。レアも、きっと......」
思わず、右目の火傷跡に触るノルヴ。
「話してもらって、ありがとうございます」
レリスは、そういって話を終わらせた。
――
最後に自分の過去を語ったところまでを思い出し、ノルヴの意識は現在へと戻ってきた。
思わず体の後ろに手をつき、天井を仰いだ。
そして、長く息を吐く。
「......何してきたんだろうな、俺」
彼の声を聞く者は、誰もいなかった。
泡沫の龍騎士 5話
「......ええ、そちらの資料室にも、ここにあるのと同じものがあります。管理する者には伝えてあるので、調べるのなら、自由にしてもらって構いません」
レリスは言い終えると、通信を切った。通信の相手は、沿岸基地にいるノルヴだ。
現在彼女がいるのは、軍本部にある資料室。軍における様々な記録や資料が、全て纏められている場所だ。そしてその手には、十年前に起こった奇襲事件の資料を持っていた。
「どうだ? 何か分かったか?」
突然声をかけられたレリス。振り向くと、そこにはガルドが立っている。
「いえ......やはり錬金術村の一件はどこにも残っていないみたいです。それ以降志願して軍に入った者の資料も見てみましたが、やはり数が膨大で......」
レリスは若干弱気な声で言った。
それを聞いて、ガルドも唸り声をあげる。
「確かに、そうだよなあ......因みに聞くが、密偵の存在について、それが裏付けられそうな心当たりはあるのか?」
一旦資料に目を落とし、考えるレリス。
「マルガリトム港の奇襲については、敵方の状況を見るに、事前にばれていた線は薄いです。それに、事件が起こる前からずっと交戦状態が続いているルボル国との戦況も、この十年で特に動いたところはありません。そう考えると、密偵が我が軍で何をしたかったのか、それすらも不明、ということになりますね......」
ガルドは、何かをもごもごと呟いた。何を言っているのか、レリスには聞き取れない。
「あ、いや、気になさらずに」
彼女の不審げな視線に気づき、ガルドは慌てて言う。
「騎士長! おられますか?」
またも、部屋の中に新しい声が響いた。
レリスが返事を返すと、現れたのはアドウェル。
「アドウェルではないですか。どうしましたか?」
「ノルヴを沿岸に行かせたというのは本当ですか」
彼女の発言が終わるかどうかといったギリギリのタイミングで、アドウェルはまくしたてた。焦っているのか、起こっているのかよくわからない表情だ。
「え、ええ。暫くは海戦が続く筈なので」
それを聞くと、彼は歯噛みした後、一言いって部屋を出ていった。
残されたレリスをガルドは、少しの間ポカンとした表情になる。
「何がしたかったんでしょうか?」
「さ、さあ」
――
同刻、沿岸基地の内部ではあるが、ノルヴとは離れた場所を、一人の一兵卒が歩いていた。
彼の名はレア。月光のような白い髪を持つ、兵にしては物静かな印象の青年だ。その表情から、大いなる不安を抱いているのがうかがえる。
「......おーい。上官の前を素通りしてるよー」
背後から、そんな声が聞こえた。声色で、誰が居るのか察したレアは、顔を強張らせながら振り向く。
「......す、すみません。ミスト隊長」
慌てて会釈をしたレア。
ミストと呼ばれた男は、それを見て悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そんなに畏まらなくってもいいじゃん。俺たち十年来の知り合い、いや友達だろぉ? ここには誰もいないんだし......って、どうしたの?」
砕け切った口調で、レアに肩を組みながら言ったミスト。しかしレアの表情を見て、様子が変わる。
一方のレアは、後ろめたそうな様子で、ポツリと呟いた。
「ノルヴが......」
その名を聞いて、ミストは納得がいったように手を打つ。
「ああ、俺っちが君を助けたとき、君が言ってた名前だねぇ。最近出てきた英雄と同じ名前だけど、なんかあったのぉ?」
レアは、大きく溜息をついた。
「今日の海戦の援軍でその英雄が来てたんですが、どうやら同名の別人じゃなかったみたいで......」
「うっそー!」
彼の言わんとすることが分かったミストは、思わず大声を上げる。
耳の近くで叫ばれたので、耳を抑えるレア。
「凄いよね? それってつまり、十年前に生き別れた、もう生きてないと思ってた親友が、偶然同じ軍に入ってたってことなんでしょ? でしょ?」
興奮しながらまくしたてるミスト。彼は思わずレアの肩を掴んで揺さぶっている。
「感動の再開のチャンスじゃん。何で話しに行かなかったの?」
「い、いや、なんだか......」
レアはそう言い、顔を伏せた。
先を促すように、レアの顔を覗き込むミスト。
「十年も経って、色々変わりすぎてて......あっちは、誰もが羨望の眼差しを向ける英雄になってますし」
まるで後ろめたいものを告白するように、レアは言った。
それを聞き、ミストは呆れたように声を上げる。
「はあ? 渋る意味がわからないんだけど」
レアも、ミストの言う事は理解できているらしい。だが浮かない顔のままだ。
これ以上言うのは野暮だと思い、ミストは一言言ってその場を後にした。
――
「......こっちにも残ってたのか」
棚に積み上げられた無数の資料を見ながら、ノルヴは呟いた。
彼が今いるのは、沿岸基地資料室。先程レリスと通信を交わした時に、この部屋の存在を知らされたのだ。王都にある本部も、今居る沿岸基地も、どちらも帝国軍の重要な拠点である。しかしノルヴは、本部からの任務につくことが殆どで、沿岸基地に駐留したことは、全くといっていいほど無かった。
――故にレアの存在に気づくことがなかったのだが
不意に戦闘中の光景が脳裏に過り、ノルヴは顔を強張らせる。何を考えているのかは、読み取れない。
暫く俯いていたが、自分が何をしに来たのかを思い出し、顔を上げた。
棚の中から、目当ての情報が載っていそうな資料を取り出し、捲る。彼が探しているのは、十年前に故郷が襲撃された事件についての情報だ。レリスとの会話から、あまり有益な情報は残されていなさそうな様子だった。しかし少しでも自分の身に起こった事を得られるのなら、という判断だ。
襲撃は、深夜だった。偶然目を覚ましていたのは、ノルヴとレアだけ。他の者は、皆業火に焼かれた。無論その中には、ノルヴやレアの両親や、親しい者も多くいたのだ。はじめ村に火の手が上がったとき、彼らは懸命に他の者を助けようと村中を駆けまわった。しかし次々と投下される爆弾と、迫りくる火の手に、自らが逃げざるをえなくなってしまう。それは即ち、非力故の見殺し、ということだった。
資料を繰りながら、そんな物思いに耽るノルヴ。あまりに集中していた為に、資料室の扉が開かれた音に気が付かなかった。
「こんにちは、英雄さん」
背後から声を掛けられ、ノルヴは勢いよく振り向く。そこには、彼の見た事のない顔があった。
「......誰だ」
基地内部なので、敵である事はまずありえない。しかしノルヴの声色には、かなりの威嚇が含まれている。彼の性格の所為だろう。
睨みつけられた男は、彼を宥めるように手を振った。
「突然話しかけてごめんよぉ。俺っち、ミストっていうんだ......レアが所属する隊の隊長をしている男さ」
ミストの言葉を聞いて、ノルヴは瞠目する。
「......矢張りあれは、レアだったのか」
思わず口から零れた呟きに、ミストは軽く笑った。
「やっぱり見かけてたんだ。俺っちもさっきあいつから話聞いてさぁ、ちょっと興味湧いたんだよね。色々話聞かせてくれよ」
彼の馴れ馴れしい態度は、彼本来のものらしい。だがノルヴはあまりいい印象がないようで、ミストを訝しんでいる。
それを見て、ミストは肩を竦めた。
「駄目ぇ? 実を言うと、十年前の事件であいつを助けたのは俺っちなんだよね。だから、この十年間あいつが何をしてきたのか話せるよ?」
ミストの話を受け流す体勢で、資料に目を戻しかけていたノルヴ。だがその動きが止まった。
「お、反応したねえ」
ノルヴの反応を読んでいたミストは、それを愉しむかのようにニヤリと笑う。
「てめえ、殴られてえのか」
完全にミストの掌中なのが気に食わないらしく、ノルヴはミストを睨みつけた。
「そんなに怖いするなって。折角話してあげるんだからさあ」
「......わかった」
不機嫌に返事をするノルヴ。目線はミストではなく、資料へと落とされていた。
依然ニヤニヤとしたまま、ミストは一冊の資料を手にとる。特に意味があるわけではなく、偶然目についたものを手に取っただけのようだ。
そして、語り始める。
泡沫の龍騎士 6話
「俺っちは、あの村から徒歩で数十分くらいのところで、一人小屋暮らしをしてたんだ。十年前にアドリア国の兵が奇襲作戦をして、山の南側は火の海になった。俺の住んでた小屋も燃えて、命からがら逃げだした。やっとこさ火のないところまで逃げられたと思ったら、そこにもう一人子供がいた。まあその子供がレアだったんだけどね? もう誰も生き残ってないと思ってたから、たまげたよ」
最後、苦笑交じりに言うミスト。
「......それで、レアは?」
ノルヴは、先を急かすように聞く。
「あいつ、怪我でズタボロだったのに、友達を助けてって半狂乱になって叫んでたよ。その友達って、君のことだったんでしょ?」
「......俺は生き残りった俺とレアを狙って来た龍から、レアを逃がしていた。逃がすといっても、逃げようとした俺とレアのうち、俺の方に偶然龍の攻撃がきたってだけだったが......この傷も、その時に負った」
一切顔を合わせることなく、会話を交わしていく二人。
そして、自分の右目の周りにある火傷跡に、ノルヴは手を触れた。
傷を見て、ミストは悲痛な顔になる。
「うわあ、やば......助かったの、奇跡だったんだねえ......レアの話に戻るけど、俺はあいつを保護したあと、二人で山を越えた。山の反対側に、錬金術師達の村があるってのを聞いてたからねぇ。そこで事情を話して、数か月の間そこで生活していたんだ」
ここでも錬金術師の村が出てきたことに、ノルヴは驚愕した。ミストらが村を訪れたのは、タイミング的に密偵の事件があった直後だろうか。
「それで、軍にはいつ?」
密偵の件についても聞けそうなことがあるのだが、そうすると話が脱線してしまう。そう考え、入隊の経緯を問うノルヴ。
「俺は元々軍に入るつもりで、燃えた小屋も、暫くしないうちに出て王都に向かうつもりだったんだ。村にずっと厄介になってるわけにもいかなかったから、やっぱ軍に行こうと思ってその事をレアに話した。するとあいつ、自分も軍に入りたいって言ったんだ。死んだお前の為にもって言ってたかな」
チラリと、目線をノルヴに向けるミスト。
彼が見たノルヴの横顔からは、葛藤のようなものが伺えた。その内容を、ミストが知る由もないが。
「そして俺とレアは軍に入って、こっちの基地に配属された。君はどうだったの?」
「俺は、師匠......副騎士長ガルドに助けられた。そん時は軍に入って間もない頃だったらしいが、元々の才能なのか、それとも何かあったのか、とんでもなく強かった。彼の元で訓練し、俺も軍に入ったんだ」
「なるほどねえ、君のその強さは、副騎士長直伝のものだったのか」
「さあな。師匠が本部にいたこともあって、俺は本部配属になった。そしてこの十年間、沿岸基地でレアに出会う事は無かった」
語り終え、ノルヴは資料を閉じる。そして、また別の資料に手を伸ばした。
ミストは嘆息する。
「難儀というか、運命の悪戯というか......それにしても、随分無表情になったんだねぇ」
棚の資料を掴んだまま動きを止めるノルヴ。
「俺っちがレアから聞かされてたノルヴは、溌剌とした、ちょいとやんちゃな少年って感じだったよぉ? どうして?」
ミストの返答は、やはりノルヴを挑発するようなものだった。
ノルヴは、たっぷり十数秒沈黙した後、口を開く。
「......さあな」
脱力するように、ミストは溜息をついた。直後資料に目を落とすと、不意に眉をひそめる。
「うん?」
突拍子もなく発せられた声に、ノルヴが反応した。ミストの目線を追って、彼の持つ資料に目を落とす。
ミストが手にしていたのは、王都に移住した者を纏めた資料だった。
そこに書かれている名前を見て、ノルヴは目を見張る。
「これ借りるぞ」
ミストの手から資料を奪い、ノルヴは慌てて部屋を出ていった。
何事かと声をかけようとしたミストだが、扉が閉じる音に遮られる。
――
「ええっ! 今からですか?」
「命令を無視する形になってしまってすみません。ただ、これについては俺が直接......」
「わかりました......あまり話を大きくすると、密偵の特定に影響がでます。以降貴方にも調査を一任する形になりますが、いいですか?」
「承知の上です。というか、元々巻き込まれているようなものですから。では」
ノルヴとの通信は、そこで切られた。
暫(しば)く資料を漁り、一旦自室に戻って来ていたレリスのもとに、彼からの連絡が入ったのだ。内容は、密偵に関すると思われるな情報を手に入れ、それを確認する為本部に向かっている、というものだった。
椅子に座ると、レリスは額に手をやり溜息をつく。
自分が探した中では、そのような手がかりは見つけられなかった。しかしノルヴは、同じ資料が保管されている沿岸基地の資料室で何かを見つけた。二人とも、探していたのは十年前の資料。量が多いとはいえ数時間もあれば余裕で見切れるものだ。何故自分は発見できなかったのか。
そんな疑念が、レリスの頭に浮かんでいた。
「隠蔽工作の可能性......」
思い至った考えを、思わず口にするレリス。そして自らの言葉を聞き、自嘲気味に笑みを浮かべた。
「大失態ですね......」
密偵に関する一連の情報は、悉くが軍の失態を語っている。諸国との戦闘など国の外に目を向け過ぎ、そう遠くない場所の異変を完全に見逃した。そしてノルヴが齎した情報は、その失態に拍車をかけるものである。
少しの間俯いていたレリスは、立ち上がって部屋を出た。向かう先は、先ほどまで居た資料室だ。
――
龍の出せる最高速度で、ノルヴは南へと向けて飛んでいた。その顔には焦燥が色濃く浮かんでいる。
ノルヴが見た資料に載っていたのは、彼の師であり、帝国軍副騎士長でもあるガルドの名前だった。そして彼の出身として記されていたのが、南鉱山錬金術村。
十年の付き合いの中で、ノルヴはそんな事を全く聞いた事がない。
錬金術師達は、その生活を研究に捧げる為に村をつくっている。つまり村人は総じて錬金術師なのだが、ガルドが錬金術師などという様子はまるでなかった。
そこから、最悪のシナリオがノルヴの脳裏を過ったのは、言うまでもない。
思わず、ノルヴは唇を噛んだ。
一時間後、彼は帝国軍本部に帰着した。
迎えるのは、騎士長レリスただ一人。
「騎士長、師匠は今どこに?」
龍から降りるのももどかしいといった感じで、ノルヴはレリスに問う。
しかしレリスは、沈んだ表情で首を横に振った。
「貴方からの連絡を受けて、すぐに彼を捜索しました。しかし、どこかに隠れているのか、それとも既に逃亡しているのか......」
ノルヴは歯噛みする。
「国境の警備は、どうなってるんですか?」
「既に通達してあります。身元が確実な商人以外、誰もこの国に出入りさせません」
その後、二人は押し黙った。
するとその時、離着陸場に新たな人影が現れる。
「騎士長!」
大声で呼ばれたレリスは、顔を上げた。
見ると、アドウェルがこちらに向けて走り寄ってきている。
「ガルド副騎士長が、先程一人で訓練場に......」
彼がそう言った途端、ノルヴは走りだした。
状況がよくわかっていないアドウェルは、そんなノルヴを不審そうに見やる。
「あの男、何を?」
「後で話します」
アドウェルの問いを流し、レリスは彼に背を向けた。